右から2番目の星

見た作品の感想文を置くところ スラムダンクをこれから読みます(予定)

是枝裕和監督×脚本家坂元裕二氏の作品、映画「怪物」を見た感想を書く。

映画「怪物」を見た。

 

是枝裕和監督と脚本家坂元裕二氏のタッグ。そして音楽は坂本龍一さん。

 

是枝監督と坂元裕二さんのタッグと聞いて、情報が公開された時からこれは絶対に映画館に観に行きたい。最初からそう思った。

 

是枝監督の作品は海街diaryが好き。坂元さん脚本の作品は「それでも、生きてゆく」や「カルテット」をはじめ、「anone」、「大豆田とわ子と三人の元夫」などそれぞれのドラマを夢中になってみるほど好きであったので、この公開が待ちきれなかった。

 

映画「怪物」を映画の予告編以外、前情報なしで見に行った。とても圧巻の作品だった。

 

予告編や少し公開されていた本編映像の予想の範疇を超える話の展開だった。

 

以下はネタバレを含む感想である可能性があるので、ネタバレを読みたくない方はこの文章を読むのをここまでにしてください。

 

子供達が大人たちを巻きこんで、起こししまうある騒動の話。子供を愛するシングルマザー、真面目な小学校教師、そしてそれを取り巻く人々と、二人の子供が織りなす、日常に起こり得てしまいそうな"事件"が描かれた作品。

 

人のエゴから生まれる気持ちの押し付けは、時に受け取る人やそれを知ったの心に疎外感や孤独を生む。無意識に生まれてしまったその傷は、行き場をなくして、危険な場所へと誘ってしまうこともある。

 

この作品は今の世界、とりわけ日本に渦巻く「当たり前」を押し付けられることによって傷つく人たちを描いた作品であると感じた。

 

それと同時に"弱者が強者に負ける"ということも描かれているように感じた。弱肉強食だ。結局、社会は弱肉強食なのだと。

 

強者がいう「こうであるからああしろ」、とか、「これが最善策だ」と言われ弱者はそれに従ったのに、それが見えない糸を引いて、結果的に最悪の結果を生んでしまうことだってある。

 

しかもそれは、誰が悪いとか、誰が悪くないとかそういうことではなくて、ただ、色々な歯車の掛け違いで、ある日、風船が弾けるように、全てを壊してしまう事故(事件かもしれない)が、起きてしまうことだってあるだろう。

 

誰が悪いあの人が悪いとかではなくて、世間そのものが「固定概念」や「思い込み」というものが人を"怪物"にしていくのかもしれない。

 

これら全てを描いたのがこの「怪物」であり、これを描いた坂元裕二氏にカンヌ映画祭で最優秀脚本賞が贈られたのもうなずける。おそろしい「怪物」のような作品が生まれた。

 

私はこれから、パンフレットを読み、ノベライズを読んでいきたいと思う。

 

どんな「怪物」が潜んでいるのか、さらにこの物語が描く「怪物」の真相に近づきたい。

2023.03.04 劇団四季ノートルダムの鐘@京都劇場 13時公演 カジモドとフロローについての感想

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2023.03.04 13時公演

劇団四季 ノートルダムの鐘

@京都劇場にて観劇してきました。

 

京都劇場には何度も来たことがあるけれど、劇団四季の作品を見るのは初めて。ノートルダムの鐘を見るのも初めてでした。

 

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ここから下は今日の公演の感想を書いていきます。

 

・カジモド

生まれてからずっとその"容貌"からノートルダムの大聖堂の中で生活をしている。眼下に映る街の人々が触れ合う光景に憧れを抱き続ける。大聖堂の中とはいえどフロローに愛され育ち、とても心優しく健やかに育った青年。鐘つきだからこそ培われたであろうその健脚と力の強さ。そして身体能力の高さ。外の世界に憧れはありながらも、フロローへの恩義は決して忘れていない。

山下さんのカジモドは外の世界を知らないからこそ、育ての親のフロローへのまっすぐな忠誠心を感じた。それでいてとても幼い。なにも知らないその姿は、時折、小さな子供のように見え、それはカジモドが育った環境からなるある種の未成熟さをひどく感じる部分だった。どこかアニメーションの作品から抜け出してきたのかな?と思うほどそのカジモドにとても近かった。優しく哀れなカジモド。それでも優しきカジモド…。かわいいカジモド。どうしてそうしなければならなかったの?悲しいよ…。という気持ちだけが積み上がる。とても素晴らしいカジモドでした…。

 

・フロロー

悲しい経緯があってカジモドを引き取ることになったフロロー。弟から託された子カジモドに本当の愛情を向けていたのだろうと思えるほど、劇中の「息子よ」という台詞はズッシリと重く心に響いて、その後の2人のハグは優しくあたたかかった…。そのハグのおかげでよりその後の展開が重たく悲しいわけですが…。

野中さんのフロローは弟を亡くした深い悲しみからずっと自分を律し続けてきた人で、このフロローだからこそこのカジモドあり。と思えた。堅実で実直で、真面目そうにも見えた。ですがその姿であればあるほど、カジモドに対するまるで実の親であるかのような優しい愛情。それが見えれば見えるほど、ジプシー エスメラルダに抱いてしまった気持ちへの暴力とも言えるような行動や言動がとてつもなく狂気じみているように見えた。

言葉に説得力があると言葉は心の中にスルスルっと潜り込み、人の心を虜にしてしまう。きっとその言葉で今までカジモドを育て上げたのだろう。だけれど、外の世界を知るエスメラルダにはその思いはとどくはずもなく。。。

フロローは自分を律し続け愛されたい欲望が招いた暴走と破滅だったのかな。と思う。

 

THE FIRST SLAM DUNKを見に行って流川くんしか見えなかった話

まずはじめに、私はこの映画を見るまで、SLAM DUNKの原作漫画も読んだことがなく、アニメも見たことがありませんでした。

SLAM DUNKの映画を見て、これから原作も読んでいこうと思うので、その記録をつけていこうと思います。

 

2022年12月24日

翌25日に友人が映画 THE FIRST SLAM DUNKを見にいくというので、暇だし隣の席が空いてたら観に行こうかなと思い、席が空いていたので予約してもらい、見に行くことにした。

SLAM DUNKは原作漫画もアニメも見たことがなかったので、とりあえず最低限の知識としてせめて公式ホームページを見た。主要メンバーキャラは5人かぁ。という知識くらいしか得られなかった。名前はなかなか覚えられない。

 

2022年12月25日

映画THE FIRST SLAM DUNKを見た。

すごかった。

知識が全くないので、誰が誰なのか誰がどの人なのか名前を頭の中で紐づけて整理をするのと、話の内容を追うことが結構大変だった。

だけどそれ以上に、映像が今まで見たことのないタイプでCGと手書きが合わさったみたいなアニメーションだったのでどういう仕組みになってるんだ?!という気持ちも湧き上がって、頭はパンクしそうだった。

それでも、試合の展開もその隣で展開されるそれぞれのストーリー凄まじかった。

中学生・宮城リョータくんのところにやってくる三井寿さんが、その後に出てくるロン毛喧嘩クソ強野郎と同一人物ってことは一応理解できたけどあってるかどうか不安だったので正誤を友人に尋ねた(あってた)

 

見終わった後の感想としては「流川くんがかっこいい…」だった。流川くんがめちゃくちゃかっこいいのである。めちゃくちゃかっこいい。

 

流川くんのドアップのシーンがあるんだけど、「眼力強…」と思い、気づいたらコートが引きで映るシーンは11番を追いかけてたと思う。

 

11番…いない!!!11番映ってない…11番いた!!!!!!!!

 

こんな具合である。しかもこれを結構繰り返す。試合終わるまでずっと。

 

極め付けはなんといっても、あの敵チームのガードを乗り越えるボールを美しい手の角度でネットへボールを放つその指先が綺麗すぎて光り輝いていた。もうあそこが好きすぎる。ほんとにめっちゃ好きだ。綺麗美しいかっこいい最高。

 

率直に、もはやアニメーション作品というよりも高校バスケの試合をパブリックビューイングで見て、その試合がすごい激戦で歴史に残る戦いだった。みたいな感じがすごく近い。

いやーすごかったすごい試合を見た最高めっちゃ面白い最高!!!!!って打ち上げしたいくらいほんとに爽快な試合(作品)だった。

鎌倉殿の13人 第3話 ネタバレ感想と考察

北条家と頼朝の関係は1週間の間に驚くほどに時が進んで、おそらく3年くらいは進んでいた。

 

時の流れの速さにも驚いたが、1番驚いたのは渦中における人々の考え方。

 

当時は文明もまだあまり発展しておらず、武器も弓や薙刀が主流であった。その上、後白河法皇平清盛のような位の高い人間に直接会うことなんて考えられなかったのかもしれない。

 

だからこそ当時は手紙か言葉を託された家来が伝えに行くというのが主流だったのだろう。

 

特に北条宗時のような熱い信仰心をもって源氏へ情熱をかけた人の行動が、時として政治の姿を変える戦いへの切符となった。

 

それに至った経緯の部分が今回はそれが1番の驚きであり、見終わってからしばらく(というか今も)困惑して考察を続けてしまっている。(説明が難しいので気になる人は鎌倉殿の13人の第3話を見て欲しい)

 

というのも私自身、昨今の社会では信じ難い情報が出たらデマ情報かもしれないから、出どころを確認してから信じるというのがセオリーだと思っているところもある。

 

なので、グルグルしているわけで。ですが、人々には、今の時代の過ごし方を変えたいだとか、お上のやり方が気に食わないし、それを変えてくれる人がいるのならついていこうというスタイルだったのかもしれない。

 

実際、身分制度のせいで、悔しい思いをしている場面もこの3回の放送の中でもくっきりと描かれている。それをもってして考えると、ああなるほど、そうかもな。と思い落ち着くところであるような気もする。

明日、とても楽しみなドラマが放送されます

明日、大好きな志村さんの人生を描いたドラマが放送される。山田裕貴くんという役者が志村さんを演じてくれる。今、とてつもなく楽しみだ。


私は志村さんを見て育った

志村さんのお笑いを、バカ殿を、変なおじさんを、ひとみばあさんをみて育った


ドリフをリアルタイムで見ていた世代ではないけれど、ドリフは何度も見た。


志村さんが亡くなった時は本当に悲しかった。本当に辛かったし悲しかった。

会ったこともない、テレビ越しに一方的に見ていただけなのに、それなのに志村さんはよく知ってる親戚のおじさんのような、そんな気がして、亡くなってからしばらくは、悲しみが体と心にまとわりついた そんな不思議な感覚がずうっとあった。


志村さんは素敵な人だ、すごい人だ。

だからこそどうやってドラマになるのか、どう描かれるのかとても楽しみだし、それを山田裕貴くんが演じてくれるのがとてつもなく楽しみだ(大切なことなので2回書きました)


こんな長文を書いているのは何を隠そう、山田裕貴くんのインスタグラムに載せられた写真を見たからだ。志村さんを思う、彼の強い気持ち、覚悟、思い、愛情が詰まってるような感じがして、とても明日のドラマの放送が更に強烈に楽しみになってしまい、気持ちを抑えきれず、半ば泣きながらこのブログにしたためた次第です。


ああ、志村さん見ててよ。明日きっと素敵なドラマが放送されますよ。私たちにたくさん笑いを届けてくれて、ありがとう。大好きです。


明日のドラマが楽しみな私より

ふと思ったので書き留める

城塞都市とか閉ざされた街とか

 

あれが描かれているお話でも計り知れない脅威が「外に」あったからその城壁が建てられて、「中の」人たちを守っている部分もあるのじゃないのかなと考えた

 

例えば有名なところで言うと進撃の巨人で、外に巨人という脅威があって、中にいる自分たちを守るために作られた場所だったのだ。こういう考えが妙に今日の今になって腑に落ちた。あらゆる方法の中から「自分たちを守る」ため「外の世界との交流を遮断する」というのは作品を見ていても歴史上の鎖国に近い。

 

まああくまでも進撃の巨人で描かれてる内容はかなり途中までしか読んでいないし、城塞都市がどうこうというわけではないんだけれど、そういった記憶の中で今この情勢下に置かれてるこのタイミングで、フィクションで描かれてる城塞都市のことをやけに深めに考えたので覚書のため書き留めておく。

 

進撃の巨人読み直さなきゃなあ。何巻まで読んだっけ 思い出せ私よ がんばれ私

リモート配信劇場 うち劇第4弾「サイレント ヴォイス」を見た感想と考察

5月16日に行われたリモート配信劇場 うち劇第4弾「サイレント ヴォイス」1部・2部共に視聴した。

 

この作品の主たるところは脚本演出を担当された西森さんが2001年6月8日に起こった「付属池田小事件」の被疑者弁護人に長年にわたり取材したうえでフィクションとして描かれたものである。

事前にあらすじを読んでいたので大方そうだろうと思っていたし多少の心構えをしたうえで観劇に臨むことができた。これは個人的にはとてもよかったなと思っている。

 

さて、本題に入る。

話は荒牧慶彦さん演じる平弁護士と、山崎大輝さん演じる新人弁護士新垣、そして杉江大志さん演じる犯人・佐久田の3人による面会室という場所を用いた会話劇だった。残虐な事件を起こした犯人の弁護士サイドからの視点で物語は繰り広げられた。

 

犯人・佐久田は残虐な犯行を起こした。現行犯逮捕されているのだから非難されて当然というのが一般論であると思う。それは間違いなく揺るぎないものである。だが、平弁護士は彼を許す・許さないを別にして犯人である前に一人の人間でもある佐久田と同じ人間として限りなく対等な目線で向き合っていた。そして少なくとも、平の熱意によって彼の心は少し救われた部分もあったのではないかと思う。

 

最終弁論にて平が佐久田に向けて語った言葉の中に「君があの日あの時鬼と化してしまったことである」という言葉がある。まさしくそれであると強く感じた。平は事あるごとに詩集を佐久田に差し入れていた。詩集や小説というのは人が生きていく中で感じる様々な言葉や感情が緻密そして丁寧に描かれているものが多い。それは名作なら尚更。

人にはそれぞれ御用があるように、その芽吹く前の花を摘んでしまったことを君は決して忘れるな という平弁護士の言葉はとても詩的であり、心を打つものがあった。

 

すくなくともあれだけ自分と向き合い続けてくれた人がいることは、佐久田の心に残ったものはあるだろうと信じたいし、たとえ彼の中のねじまがった歪んだ考えが変えられなくとも、この世を去る前に、自分が犯してしまったことへの後悔を、そして人に会えなくなってしまう寂しさを少しでも思い返していることを祈りたい。

 

平弁護士が最終弁論で話した金子みすゞの『私と小鳥と鈴と』の「みんなちがって みんないい」は今ではどうかわからないが学生時代にクラスに標語として常に掲示されていた。実在する事件前当時の学校に掲示されていたと記憶している。それを思い返すと同時に、彼は学校生活の中でも、モノに対する慈愛や他者に対する愛情の部分などを理解することはできずそれが酷く欠如していってしまったのだなと感じた。こういったことは日常の生活の中で、人と接していく中で学んでいくべきことであると思う。だがしかし彼が本当に精神障碍者であったのだとしたら、それは作中でも述べられた通り、そういった人々が生きにくい社会でもあるのかもしれないとも感じた。

 

近年現代社会ではバリアフリー社会という目標が掲げられているところがある。自分と違う人を認め、自分を認め、社会で生きていく上で何が大切なのか、すべての人が等しくそれを理解しあえる、平等で生きやすい社会をつくるというのが正しいバリアフリー社会であろう。しかし、平等という言葉が並べられているところを感じると、不平等というものが存在しているから平等という言葉が出てくるのだなと、この作品を見てから改めて感じた。

 

佐久田の挙動や話した言葉の中には生き苦しい世の中、そして自身が強く感じた不平等さへの恨みが渦巻いて見えた。その根幹にあるものの真実は本当の言葉はわからないが、私には彼の心の奥底に「本当の愛情」を受けられなかったという「寂しさ」があったのかなと感じた。彼が本当に本当の愛情を知らずして育ってしまったのなら彼の欲しかった愛情が一体どこにあったのかはわからない。だが、話の内容から察するに勘当された父親や懇願したが復縁が叶わなかった妻からその愛情を受けたかったのだろうと思う。人は興味のない人に対しては感情がわかないものである。そういった場合にそこにある感情は無なのだと思う。佐久田は父親や元妻への復讐のためにこの事件を起こしたと話していたのだからきっと愛情をそこから与えてほしかったのであろう。少なくともこれは個人的考察であるので読み手の皆様にはそのあたりは了承していただけたら幸いである。

 

どんな理由があったも人を殺めることは決して許されるものではない。

それは何があっても変わらないことである。

今回の作品はその許されない罪を犯した人間と最後まで向き合うということの大変さや辛さなども強く感じた部分があった。

 

残虐な犯人と相対する弁護士の精神力と体力の消耗はとてつもないものだと感じたし、そういった仕事を請け負う弁護士という仕事は彼らと人間として最後に向き合う大切な時間を作っているのだとも思った。

 

また、新人である新垣弁護士は、作品の中でとてつもなく重要であった。一本の柱となり先輩である平を強く支えていた部分があったと思う。青臭いからこそ言える気づき、それこそがこの物語の起点だったのではないかと思う。少なからず難儀な内容の弁護でありながらも、それでも、平と共にこの一連の事件の弁護を通しての成長した新垣という弁護士はおそらく近が大きく成長していくのだろうと感じるほどであった。

 

リモートという形での配信ではあったので、多少の戸惑いはありつつ、画面の向こう側ということの若干の誤差は感じながらも、生で演じられているという部分は舞台と変わらず、途中で何度か起こったハプニングによる中断も相まって、臨場感を感じていたので、何か舞台演劇と通ずるものを感じるところもあった。

 

このタイミングでこの情勢下でこの作品を見ることができて、とても有意義な時間となった。またリモート演劇を見る機会があれば、また見てみたいと思う。

 

そしておそらくだが今後もリモート演劇は劇場演劇とはまた異なった手法でリモート演劇にしかできない設定であったり手法で展開していくのではないかと感じることができた。